3-4 電子構造研究部門
基礎電子化学研究部門
西 信 之(教授)
A -1)専門領域:クラスター化学、電子構造論、物理化学
A -2)研究課題:
a) (有機分子 - 金属原子)nクラスター化合物の液相合成とその構造・反応・物性 b)液体中でのクラスター形成による局所構造の発生と「 Micro Phase」の生成 c) 溶液中の有機分子およびクラスターのイオン化過程と構造・イオン分子反応
d)分子クラスターイオンにおける分子間相互作用と電荷移動・エネルギー移動ダイナミックス
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) π電子系を持つ電子吸引性又は電子供与性の有機化合物と遷移金属原子とを1次元、2次元、或いは3次元的に交 互に並べると、強いπ -d相互作用によって極めて伝導性が高く、且つ、金属原子上にスピンが並んだ高スピンクラ スター分子が出来る。クラスター分子は、それが単一分子である限り、パウリの原理に従い、基底状態では磁性を持 たない一重項状態か、スピンを打ち消しあってしまう二重項しか取り得ない。しかし、遷移金属原子(特に空軌道の 多いバナジウム)を含むユニットがほとんど末端の影響が無いくらいに多数個含まれるようになると、多くの空軌 道が被占有軌道に接近し、励起状態と基底状態とが大きな相関を示し始め、高スピン状態が出現するようになると 予想される。通常の分子系では、ほぼ孤立していた HOMO 或は S OMO 軌道が、スーパークラスター系では擬似縮重 的に多数個現れ、極低温でない限り、様々な電子配置が可能となり、高スピン状態が出現すると予想される。スピン 状態はクラスターサイズの高次非線型関数となって、大きなクラスターほど高スピンになりやすい。ところが、クラ スター系は生成時に本質的な幅の広いサイズ分布を持ち、大きなクラスターと小さなクラスターが混在する。各ク ラスターがたとえ高スピン状態であったとしても、スピン量子数がサイズに比例するような場合は、スピンは互い に打ち消し合って磁化が生じない。しかし、小さいクラスターではなかなか高スピンになれないが、大きくなると非 線型的に高スピン状態が出現する系では、反強磁性的な相互作用の結果として、大きな磁気モーメントが出現可能 である。 即ち、個々の単一分子クラスターがそれぞれ「単一の磁区(Magnetic D omain)」となるのである。このよう な系の創製が実現すると、単一分子クラスターを磁区構造とする最小のクラスター磁石が実現する。これは、これま での磁石と磁気モーメントの発生機構は同一でありながら、考えうる最小の単位で磁石を実現する全く新しいシス テムである。
本年度は、(C5H5)V (C O)4の制御された液相光化学反応によって質量数3000に至る((C5H5)V)n(C5H5)およびその酸素 付加体の混合物クラスターの合成に成功した。有効磁化率であるχgT 値は、300 K でメタ磁性体である F eC l2の約 1.5 倍であった。これは、温度が下がると共に徐々に増加し、10 K 以下になると急激に減少した。このような磁性は、混合 物の中にごく微量に(数%)存在するn = 20程度の高スピンクラスターが周りの小さな低スピンクラスターと反強 磁性的に相互作用を行いフェリ磁性体となっていることによると推測される。今後、構造を含め、その詳細を明らか
にすると同時に、さらに大きな磁化率を示すクラスター系を構築したい。
一方、このような液相で合成された高分子量クラスターの質量分析を行う新しい質量分析計を開発した。(特許出願 特願 2000-242002号、E P CE P CE P CE P CE P C 特許出願第 00308933号、米国特許出願第 09/684,441号)これは、反応を起こしている最中、 或いは反応終了時に生成した物質を溶液のまま真空中に導入し、回転する円筒形ドラムの表面に溶質のみを固定し、 レーザー脱離法によってイオン化脱離を行い、生成物の同定を行う装置であるが、生体高分子、特に嫌気性の高分子 や分子複合体の質量分析にも威力を発揮するであろう。
b) 我々がこれまでに見出してきた水の中での混合状態に関する重要な結論のひとつであるが、「水の中で、アルコール やカルボン酸などの水素結合性の溶質分子は自己会合を優先させ、クラスターユニットで存在する『Micro Phase』を 形成している」という概念は、これまでの常識とは大きく異なるが、熱力学や理論的研究からも次第に受け入れられ つつある。これは、溶媒としての水がその水素結合ネットワークをできるだけ壊さないように、即ち、水素結合の切 断によるエネルギー損失を最小限に抑えるためには、溶質を水の中にばらまくのではなく、限られた空間に閉じこ めることによって水クラスターの占める領域を最大にする必要があるためであると解釈される。何でも「 M i cro Phase」を形成するわけではなく、「Micro Phase」の生成は、水溶媒に特有な現象であるはずである。このことを確証す るために、水の代わりに同じ極性溶媒であるが、水素結合性が弱いアセトニトリル系で、酢酸がどのように溶解する かを調べた。その結果、アセトニトリル中では、1)酢酸と水が 1:1の会合体を作っているか、2) 酢酸分子はアセトニ トリルと全く会合体を形成しないで、むしろ自由分子として存在しているかのどちらかであり、温度が高くなるほ ど後者が増えてゆくことが明らかになった。また、酢酸の濃度を少し高くしても、酢酸の会合は起こりにくいことか ら、双極子モーメントを持たない環状2量体はアセトニトリルの中でも安定化されないと理解され、このことに関 しては水の中と同様であることが解った。今回の結果は、「Micro Phase」の形成、即ち、水素結合性溶質の自己会合ク ラスターの形成が水環境に特有のものであることを示している。
c) タンパク質や生体の膜の中で、様々な官能基がどのような相互作用をするかは、極めて重要な問題である。我々は、 ベンゼン環とカルボキシル基との相互作用様式を、気相から調べ始めている。カルボン酸がベンゼン陽イオンに付 加する時は、これが水素原子受容体として作用し、ベンゼン環の水素原子に平面内で2個ないし1個の酸素原子が 水素結合することを報告したが、実は、この構造よりもエネルギー的に安定な電荷移動錯合体の存在が、電子スペク トルの近赤外領域に現れた電荷移動吸収帯の観測と、赤外振動スペクトル、MC QDPT 分子軌道計算による電子スペ クトル計算から明らかになった。このような、πカチオンとカルボン酸の間に起こる電荷移動電子状態は、本質的に は、基底状態で分子間で結合性軌道を作っていたものが、カルボン酸の酸素原子からベンゼン環陽イオンへの電子 移動がほぼ完全に起こり、カルボン酸に陽電荷が移動して安定となる過程に相当している。このような、電荷の分子 間移動がはっきりとした電子スペクトルとして観測されたのは、大変興味深い。
d) 溶液中の芳香族分子の光イオン化において,イオン対の生成,電荷分離,溶媒和,構造変化,余剰エネルギー散逸など の過程がピコ秒 - フェムト秒で進行し,これらがイオンの生成効率,分岐比を支配する。我々は昨年度製作した 2 台 のピコ秒光パラメトリック増幅システムを用いて,極性溶媒中におけるビフェニルなどの芳香族カチオンのピコ秒 時間分解ラマンスペクトルを初めて測定し,光イオン化に伴う芳香族カチオンの超高速緩和を検討した。ラマンバ ンドの波数シフトから得られるカチオンの振動緩和時間は中性分子とほぼ同じであり, 約10ピコ秒であった。カチ オンと溶媒との相互作用は,中性分子と溶媒よりも強いことから,この結果はカチオンの第一溶媒和層に超高速エ ネルギー散逸が生じ,溶媒から溶媒へのピコ秒エネルギー伝達を振動緩和として観測しているモデルを支持する。 さらに振動緩和とほぼ同じ時定数でカチオンのラマン強度の立ち上がりが観測された。この新たに観測されたピコ
秒変化は,余剰エネルギーが溶媒に散逸し,溶媒和構造が乱れることで,ラマン強度が変化していると考えられる(溶 媒和構造の温度変化)。この結果は,多光子で生成したカチオンは,フェムト秒で瞬間的に溶媒和されるのではなく, 余剰エネルギーの超高速散逸により約 10 ピコ秒の時定数で緩やかに溶媒和されることを示唆している。
B -1) 学術論文
T. TAKAMUKU, T. YAMAGUCHI, M. ASATO, M. MATSUMOTO and N. NISHI, “Structure of Clusters in Methanol-
Water Binary Solutions Studied by Mass Spectrometry and X-Ray Diffraction,” Z. Naturforsch., A; Phys. Sci. 55, 513 (2000). K. OHASHI, H. IZUTSU, Y. INOKUCHI, K. HINO, N. NISHI and H. SEKIYA, “Vibrational and Electronic Spectra of
(benzene-benzyl alcohol)+: Predominance of Charge Resonance Interaction over Hydrogen-Binding Interaction,” Chem. Phys. Lett. 321, 406 (2000).
K. OHASHI, Y. INOKUCHI, H. IZUTSU , K. HINO, N. YAMAMOTO, N. NISHI and H. SEKIYA, “Electronic and
Vibrational Spectra of Aniline-Benzene Hetero-Dimer and Aniline Homo-Dimer Ions,” Chem. Phys. Lett. 323, 43 (2000). Y. KODAMA, T. NAKABAYASHI, K. SEGAWA, E. HATTORI, M. SAKURAGI, N. NISHI and H. SAKURAGI, “Time-
Resolved Absorption Studies on the Photochromic Process of 2H-Benzopyrans in the Picosecond to Submillisecond Time Domain,” J. Phys. Chem. A 104, 11478 (2000).
B -4) 招待講演
西 信之 , 「水の中のクラスター:小さな水分子の大きな秘密」, 林原フォーラム2000「水と地球と人間」, 岡山 , 2000年 9月 . 西 信之 , 「光による液相でのサブナノクラスターの合成とその構造」, 分子構造総合討論会シンポジウム, 東京 , 2000 年 9月 .
B -5) 受賞、表彰
西 信之 , 井上学術賞(1991). 西 信之 , 日本化学会学術賞(1997).
B -6) 学会および社会的活動
日本化学会先端ウオッチング実行委員 . 文部省、学術振興会等の役員等
日本学術振興会専門委員 .
B -7) 他大学での講義、客員
東京工業大学 , 特別講義「クラスター化学」, 平成 12年度前期 . 名古屋大学 , 特別講義「クラスターの化学」, 平成 12年度後期 .
C ) 研究活動の課題と展望
2000年までの3年間は、研究室の立ち上がり期間として、装置の開発、導入、合成設備の整備など多くの労がかかり、論文発 表などは二の次であったが、どうやら、プラトーにさしかかりつつあり、新しい展開に見通しがついてきた。しかし。人数のわり
に研究テーマが多すぎるのが効率を上げきらないでいると判断される。今後の数年間は、次第にa)およびb)のテーマに重点 を移し、新しい時代の分子科学の発展に備えなくてはならない。特にa)のテーマに関しては、①合成法を改良し、更に大きな クラスターの割合を増加させる、②酸素を完全に除いた条件での合成を行い、酸素原子の付加が磁化率にどのような影響 を与えているのかを明らかにしなくてはならない。更に、他の電子受容体を入れて、更なる性能の向上を図る必要がある。ま た、電子状態の計算をどこまでできるか、分子研の計算機の能力を最大限生かしたアプローチを試みたい。これによって磁 性の起源が明らかになるであろう。さらに、S T Mによりクラスターを直接観測することも必要であろう。まずは、スーパークラス ターの小集団を取り出し、フェリ磁性体磁石として最小のユニットを実現したい。
佃 達 哉(助教授)
*)
A -1)専門領域:クラスター科学
A -2)研究課題:
a) 金属クラスターの精密合成:生成過程のその場観察装置の開発 b)金属クラスターの精密合成:分子カプセルによる保護安定化 c) 金属クラスターの化学反応追跡装置の開発
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 安定保護剤の存在下で金属イオンを還元すると,金属原子同士の凝集過程と保護剤吸着によるクラスターの安定化 過程が競合し,その結果金属クラスターが生成する.サイズ(構成原子数)が揃った金属クラスターを大量に調製す るためには,競合するこれらの過程を原子レベルで理解し、制御することが必要不可欠である.そこで,溶液中の金 属クラスターのサイズや組成の変化を実時間で追跡するための質量分析装置を設計・製作した.実際には,エレクト ロスプレーイオン化法によって溶液中から気相に引き出した金属クラスターを,20 keV 程度にまでパルス的に加速 し,飛行時間型質量分析器で検出する.現在,各種生体関連分子や高分子を用いた実験装置の動作確認および性能評 価を終え,金属クラスターの観測を開始している.
b)サイズが揃ったクラスターを調製するためのアプローチとして,種々の分子カプセルが持つ空間をクラスターの成 長場として利用する方法が考えられる.そこで,シクロデキストリンやカリックスアレンなどサブナノメートルの 疎水性空洞を持つ分子を保護剤として利用して,PdやR hなどの遷移金属クラスターの調製を行った.透過型電子顕 微鏡による観察の結果,直径2−6 nm程度のクラスターが分散していることが明らかになった.さらに,シクロデキ ストリンを用いた場合には,複数のクラスターが会合し直径55 ± 20 nmの中空球状の高次構造体を形成することが 走査型電子顕微鏡観察の結果明らかになった.
c) a)やb)で合成した金属クラスターの反応性を調べるための実験装置の設計・製作を行った.まず,溶液中に分散した 金属クラスターをエレクトロスプレーイオン化法によって固体表面上に噴霧し,均一に塗付する.これをロードロッ クチェンバーを介して上述の飛行時間型質量分析器中のイオン折り返し電場中に導入し,タンデムの質量分析器と する.この装置を用いて,サイズとエネルギーを選別した分子イオンやクラスターイオンを、固体表面に担持した金 属クラスターに衝突させ,誘起される化学反応を調べる.
B -1) 学術論文
T. TSUKUDA, T. SASAKI, N. KIMURA and T. NAGATA, “Growth Mechanism of Metal Cluters in Ligand Exchange
Processes,” Trans. MRS–J. 25, 929 (2000).
Y. NEGISHI, H.KAWAMATA, F. HAYAKAWA, A. NAKAJIMA and K. KAYA, “Photoelectron Spectroscopy of Tin and
Lead Cluster Anions; Application of Halogen Doping Method,” J. Electron. Spectrosc. Relat. Phenom. 106, 117 (2000). Y. NEGISHI, T. YASUIKE, F. HAYAKAWA, M. KIZAWA, S. YABUSHITA, A. NAKAJIMA and K. KAYA, “Linear and Ring Structures of Copper Cyanide Clusters,” J. Chem. Phys. 113, 1725 (2000).
Y. NEGISHI, S. NAGAO, Y. NAKAMURA, S. KAMEI, A. NAKAJIMA and K. KAYA, “Visible Photoluminescence of
the Deposited Germanium–Oxide Prepared from Clusters in the Gas Phase,” J. Appl. Phys. 88, 6037 (2000).
Y. NEGISHI, S. NAGAO, Y. NAKAMURA, S. KAMEI, A. NAKAJIMA and K. KAYA, “Electronic State of Germanium–
Oxide Clusters and Their Visible Emission,” Trans. MRS–J. 25, 999 (2000).
M. SANEKATA, T. KOYA, S. NAGAO, Y. NEGISHI, A. NAKAJIMA and K. KAYA, “Electronic and Geometric Structures of Metal–Silicide Clusters,” Trans. MRS–J. 25, 1003 (2000).
B -3) 総説、著書
T. TSUKUDA and T. NAGATA, 「分子クラスター負イオンの電子・幾何構造と反応性」, Bull. Cluster Sci. Tech. 3, 3–7 (2000).
B -5) 受賞、表彰
佃 達哉 , 第 11回井上研究奨励賞(1995).
C ) 研究活動の課題と展望
7月から根岸君が助手としてグループに加わり,実験装置をある程度の水準にまで立ち上げることができた.これまでに本装 置を用いて質量数が4万程度の分子クラスターの検出に成功しており,ナノ∼サブナノメートルサイズの金属クラスターも十 分検出できるレベルに達している.今後は,リフレクトロンを導入し質量分解能を向上させるとともに,本装置を用いてin situ にサイズを追跡しながら金属クラスターの調製を試みる.課題b)に関しては,我々のグループ内で核となって精力的に実験 を進めてもらえる人材の確保が急務であると考える.最終的には a)とb)を組合わせて,サイズが厳密に揃ったクラスターの
大量調製法の確立を目指す.課題 c)に関しては,なるべく早い時期に装置の立ち上げを行い,予備実験を開始する.
*)2000 年 1月 1日着任
電子状態動力学研究部門
藤 井 正 明(教授)
A -1)専門領域:物理化学、分子分光学
A -2)研究課題:
a) 赤外−紫外二重共鳴分光法による分子・クラスターの構造とその動的挙動 b)イオン化検出赤外分光法による孤立分子・クラスターの高振動状態の研究 c) パルス電場イオン化光電子分光法による分子カチオンの振動分光 d)2波長分光法を用いる超解像レーザー蛍光顕微法の研究
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) 溶質・溶媒分子で構成される溶媒和クラスターは凝集相のミクロなモデルであり、その構造と反応性は凝集相での 反応・緩和や溶媒効果を分子論的に理解する上で理想的な試料系である。特に水素結合で形成される溶媒和クラス ターは溶液と同じく光励起プロトン移動反応をを起こすが、反応活性にはクラスターサイズ依存性が有ることが知 られている。たとえば1−ナフトール水和クラスターの場合、水分子を30個以上含むクラスターでクラスター内光 励起プロトン移動反応を起こす事が知られている。このようなサイズ依存性はクラスターに特徴的な現象であり、 溶液内反応の初期過程を明らかにする上でも非常に重要である。しかし、このような反応活性なクラスターの構造 はS0、S1共に確定しておらず、構造と反応性の関係は明瞭ではない。そこで本研究では赤外−紫外二重共鳴分光法の 一種である IR D ip分光法を主に水素結合で形成される反応活性な溶媒和クラスターに適用し、基底状態S0、電子励 起状態 S1、及びイオン化状態での赤外スペクトルの観測を行い、振動スペクトル解析、及び ab initio MO 計算(東京 都立大学・橋本健朗助教授との共同研究)との比較からクラスターの構造を明らかにしてきた。
昨年度、反応活性になる大きなクラスターの発生が可能な分子線試料源を有し、かつ大きなマスまで測定できるT OF 型質量分析器を有するクラスター分光装置を製作し、これを用いた実験を本年度行なってきた。1−ナフトールに 関しては、プロトン親和力と分子間結合力や構造の関係を系統的に調べるため、メタノール、エタノール、tert- ブタ ノールを溶媒としたクラスターを生成してIR D ip分光法を適用、赤外スペクトルによる構造決定を行なった。この 結果、小さなクラスターではプロトン親和力とOH振動数(結合力)に良い相関が見られたが、溶媒数が多くなると相 関が悪くなることを明らかにした。これは、大きなクラスターでは溶媒間の立体障害などにより水素結合の配向に ひずみが生じるためと解釈した。さらに、溶媒の極性により光励起反応が大きく異なる系としてカルバゾール溶媒 和クラスターにも着目し、水、メタノール、アセトニトリルを溶媒とするクラスターについてを同様の手段により構 造決定を行なった。この結果、カルバゾールではN-Hと芳香環を面外架橋するリング構造を溶媒ネットワークが形 成することを明らかにした。
この装置が最も威力を発揮したのは反応活性なフェノール・(アンモニア)nクラスターである。従来からこのクラス ターではアンモニア分子の数が4個以上のクラスターで光励起プロトン移動反応が活性になると言われてきたが、
n = 2でもS1の寿命が早い減衰を示すなど整合性の取れない結果が報告されていた。これと対応して、パリ南大のC .
J ouvet らのグループがプロトン移動反応に加えてOHのラジカル開裂による水素原子移動反応が起きている可能性 を指摘したが、これを直接示す結果は得られていなかった。我々は波長可変赤外レーザーと2台の紫外レーザーを
組み合わせた紫外−赤外−紫外3重共鳴分光を新たに開発し、フェノール・アンモニアクラスターに適用して反応 生成物の赤外スペクトルの測定に初めて成功した。赤外スペクトルは反応生成物が水素原子化アンモニアクラス
ターNH4·(NH3)n–1であることを明瞭に示しており、このような酸・塩基で構成される溶媒和クラスターでもプロト
ン移動に加えてラジカル開裂が起こることを示すことができた。典型的な溶液内反応であるプロトン移動反応と気 相反応の代表であるラジカル開裂が同じクラスター内で競合することは、溶媒和クラスターが溶液と気相の性質を 併せ持つことを示しているものと考えている。
b) イオン化検出赤外分光法は独自に開発した高感度赤外分光法であり波長可変赤外レーザーで生じる振動励起分子 を紫外レーザーで選択的にイオン化して検出する二重共鳴分光法である。赤外遷移をイオン検出すること及びバッ クグラウンドフリーであることから極めて高い検出感度を有し、試料濃度が希薄な超音速ジェット中で吸収係数が 極めて小さな高次倍音を明瞭に観測できる。この方法により明らかにした高振動フェノール分子の段階的緩和機構
(T ier Model)の展開として2個のOHを有するベンゼン誘導体・カテコールに本分光法を適用し、意図的に振動数が 近接した振動準位を導入することに依る分子内振動緩和の変化を調べた。この分子の場合、一方のOH基は分子内水 素結合により振動数がもう一方の自由なOH基より僅かに低下している。観測した線巾によると高振動状態での緩 和も両者で大きく異なっており、分子内水素結合の有無が緩和速度に大きく影響を与えている事を明らかにした。 このメカニズムについて検討している。
c) パルス電場イオン化光電子分光法(PF I-Z E K E 法)は高励起リュードベリ状態を電場イオン化して検出する高分解能 光電子分光法であり、カチオンの振動分光を行う優れた手段である。我々は中性リュードベリ状態を検出する特性 に着目して装置の大幅な簡易化・汎用化を実現し、従来の光電子分光では困難な大きな分子カチオンの振動分光を 行ってきた。本年はソフトモード間の相互作用解明を意図し、メチル基内部回転運動と分子間振動という2つの大 振幅振動を有する m-cresol-H2O に本分光法を適用し、カチオンクラスターでの低振動大振幅振動を観測した。観測 した非調和かつ複雑なバンド構造をメチル基内部回転運動と分子間伸縮振動による結合音として解析し、m-cresol 水和クラスターに関してはこれらの大振幅振動間の相互作用が極めて小さいことを明らかにした。これはメチル基 と水酸基の空間的な隔たりに加え、両者が面外と面内という異なる対称性に属する為と考えられる。今後、内部回転 と面外変角分子間振動の相互作用などに関して展開したい。
d) 2台のレーザーを用いる分光法は回折限界を凌駕する空間分解能(超解像)に展開できる。即ち、1色のレーザーを 集光した際に出来る像は回折限界で制限されているが、2つのレーザー光の重なり部分を取り出せば回折限界以下 の空間分解能が得られるはずである。オリンパス光学・池滝慶記主任研究員、千葉大学工学部・尾松孝茂助教授との 共同研究により、このアイディアに基づく顕微分光実験装置を製作し(科技団独創的研究成果育成事業)、原理検証 実験に成功した。
B -1) 学術論文
K. SUZUKI, Y. EMURA, S. ISHIUCHI and M. FUJII, “Internal Methyl Group Rotation in o-Cresol Studied by Pulsed
Field Ionization – ZEKE Photoelectron Spectroscopy,” J. Electron Spectrosc. 108, 13 (2000).
K. SUZUKI, S. ISHIUCHI and M. FUJII, “Pulsed Field Ionization - ZEKE Spectroscopy of Cresoles and Their Aqueous
Complex: Internal Rotation of Methyl Group and Intermolecular Vibrations,” Faraday Discuss. 115, 229 (2000).
S. ISHIUCHI, M. SAEKI, M. SAKAI and M. FUJII, “IR Dip Spectra of Photochemical Reaction Products in a Phenol/ Ammonia Cluster Examination of Intracluster Hydrogen Transfer,” Chem. Phys. Lett. 322, 27 (2000).
M. MITSUI, Y. OHSHIMA, S. ISHIUCHI, M. SAKAI and M. FUJII, “Structural Characterization of the Acridine–(H2O)n
(n = 1–3) Clusters by Fluorescence Dip Infrared Spectroscopy,” Chem. Phys. Lett. 317, 211 (2000).
M. MITSUI, Y. OHSHIMA, S. ISHIUCHI, M. SAKAI and M. FUJII, “Structure and Dynamics of 9(10H)-Acridone and Its Hydrated Clusters. II. Structural Characterization of Hydrogen-BondingvNetworks,” J. Phys. Chem. 104, 8649 (2000).
B -4) 招待講演
M. FUJII, “Structure of Solvated Naphthol Clusters Studied by IR-UV Double Resonance Spectroscopy and Ab Initio MO Calculations,” December 1999.
藤井正明, 「赤外レーザーによる高振動状態の観測と分子の結合切断」, レーザー学会第20回年次大会, アクロス福岡, 福 岡 , 2000 年 1 月 .
M. FUJII, “Pulsed Field Ionization - ZEKE Photoelectron Spectroscopy of Cresols and Their Aqueous Complex - Internal
Rotation of Methyl Group and Intermolecular Vibrations,” “Faraday Discussion 115 Molecular Photoionization,” University of York (U. K.), April 2000.
藤井正明, 「レーザー二重共鳴法による気相分子とクラスターの高感度赤外計測」, レーザー学会・レーザーによる超微量物 質計測技術専門委員会 , 岐阜羽島文化センター, 岐阜 , 2000年 11 月 .
M. FUJII, “Overtone Spectgroscopy of Jet-cooled Phenols Studied by Nonresonant Ionization Detected IR Spectroscopy—
Doorway in IVR,” 2000 International Chemical Congress of Pacific Basin Society (Pacifichem2000), Honolulu (U. S. A), December 2000.
M. FUJII, “Vibrational Study of Phenol/Naphthol Solvated Clusters by IR-UV Double Resonance Spectroscopy,” 2000 International Chemical Congress of Pacific Basin Society (Pacifichem2000), Honolulu (U. S. A.), December 2000.
B -5) 受賞、表彰
日本化学会進歩賞受賞(1992). 山下太郎学術奨励賞受賞(1992). 分子科学奨励森野基金(1996).
B -6) 学会および社会的活動 分子科学研究会・事務局 .
環太平洋化学会議(Pacifichem2000)シンポジウム主催者 .
C ) 研究活動の課題と展望
反応活性クラスターの研究で問題であった多量体クラスターの生成に関して、科研費により整備できた分子線・リフレクトロ ンマス分光用真空槽が稼働し、威力を発揮し始めた。今後、分子線の発生方法などを工夫して凝集系の性質と比較できる 程度の大きなクラスターの分光にも挑戦したい。クラスターに関するもう一つの課題は時間分解振動分光である。反応活性 クラスターの赤外スペクトルがナノ秒レーザーシステムで観測できるように成ってきたことをふまえ、ぜひ化学的に重要な溶 媒和クラスターの反応を実時間観測で観測できるようにしたい。このような2波長レーザー分光の発展の一環として、2波長レー ザーを用いる超解像レーザー蛍光顕微法の研究も、革新的技術開発研究(国民参加のミレニアムプロジェクト)に採択され
ることで新装置試作が可能となり、大きな進展を期待している。以上の状況で最大の問題はグループの規模が小さいことで あり、現在、助手の酒井誠君、博士研究員の佐伯盛久君・渡辺武史君、D3の石内俊一君がフル稼働している状態である。新 人の参加を心待ちにしている。
鈴 木 俊 法(助教授)
A -1)専門領域:化学反応動力学、レーザー分子分光学
A -2)研究課題:
a) 交差分子線散乱画像観測法による二分子反応の研究
b)偏光分光法による化学反応の立体動力学、ベクトル相関の研究 c) 超高速光電子、イオン画像観測法による単分子反応の実時間観測
A -3)研究活動の概略と主な成果
a) NO-A rの回転非弾性散乱について状態選択微分散乱断面積を測定し、Maryland大学A lexander教授が行ったC C SD(T ) 曲面上での量子散乱計算と詳細に比較検討した。実験結果は理論とほぼ完全な一致を見せ、開殻系の回転非弾性散 乱問題がほぼ解決されたことを実証した。
b)OC Sの光解離で生成するS(1D)原子について、その電子軌道が配向(orientation)を持つことを画像観測法で観測し解 析を行った。
c) フェムト秒pump-probe光電子画像化法により、ピラジンの超高速電子位相緩和を検出した。また、同手法により初め て、光電子強度と角度分布に対する回転コヒーレンス効果を見い出し、分子固定系での光電子角度分布を測定する 新手法を提案した。
B -1) 学術論文
Y. MO and T. SUZUKI, “Vector Correlation in Molecular Photodissociation: Quantum Mechanical Expression and Comparison with the Formal Expansion Formula,” J. Chem. Phys. 112, 3463 (2000).
B -4) 招待講演
T. SUZUKI, “State-resolved differential cross sections in NO-Ar inelastic scattering at 63 meV”, East Asian Workshop on Chemical Dynamics, Kaoshung (Taiwan), March 2000.
T. SUZUKI, “Femtosecond time-resolved photoelectron imaging on ultrafast molecular dynamics,” Workshop on Imaging Techniques in Chemical Dynamics, Crete (Greece), October 2000.
T. SUZUKI, “Femtosecond photoelectron imaging on ultrafast molecular dynamics,” Free University of Amsterdam, Amsterdam
(The Netherlands), October 2000.
T. SUZUKI, “Femtosecond photoelectron imaging on ultrafast molecular dynamics,” Seoul National University, Seoul (Korea), November 2000.
鈴木俊法 , 「画像観測法で拓く新しい反応動力学研究」, 第10回物理化学コロキウム「21世紀へ向けた物理化学の新展開」, 仙 台 , 2000 年 10 月 .
B -5) 受賞,表彰
鈴木俊法 , 分子科学奨励森野基金 (1993年度).
鈴木俊法 , 日本化学会進歩賞 (1994年度). 鈴木俊法 , 日本分光学会論文賞 (1998年度).
B -6) 学会及び社会的活動 学会の組織委員
第1回日本台湾分子動力学会議主催者(1997). 分子構造総合討論会プログラム委員(1997).
分子研ミニ研究会「化学反応動力学若手討論会」主催者(1998). 第1回東アジア分子動力学会議主催者(1998).
第15回化学反応討論会組織委員(1999).
分子研研究会「分子及び分子小集団の超高速反応ダイナミクスに関する研究会」主催者(1999).
国際シンポジウムThe International Symposium on Photo-Dynamics and Reaction Dynamics of Molecules, プログラム委 員(1999).
分子研ミニ研究会「クラスター反応動力学若手討論会」主催者(1999). 分子研ミニ研究会「分子科学院生討論会」主催者(2000).
分子研研究会「立体反応ダイナミクスの新展開」主催者(2000).
Gordon Conference on Atomic and Molecular Interactions, Discussion Leader (2000).
環太平洋化学会議、シンポジウム, New Frontiers in Chemical Reaction Dynamics, 主催者(2000).
B -7) 他大学での講義
東京大学教養学部基礎科学科 , 「基礎科学特別講義 X III」, 2000年 1 月 .
C ) 研究活動の課題と展望
我々は、交差分子線、超高速レーザー分光、および画像観測法を用いて、化学反応途中の分子における電子状態や核配置 の変化を可視化する研究を進めている。このような研究は、化学の基礎であると同時に、非平衡条件下で進行する成層圏 オゾン層あるいは星間空間での化学の解明に資するものである。また、化学反応動力学の更なる発展のためには、同分野 における東アジア諸国間での学術交流を推進することが重要である。1997年に開始した台湾、韓国、中国との化学反応動 力学ワークショップを継続して推進している。